top>>須津谷鉄道index>>歴史



■歴史

○開業前〜開業後
 須津谷町(当時)を中心とした須津谷地区は、かねてより東北地方の街道筋にある宿場町として栄えた街だった。明治になって国や日本鉄道といった鉄道が東北地方にも伸びたが、近隣の大山町(当時)に線路が敷かれたのみで、須津谷地区に線路が敷設されることはなく、鉄道の建設が熱望されていた。
 また、須津谷地区の近隣にある能見山(のみさん)では、1800年代後期より銅や硫化鉄鉱、鉛などを産出していた能見鉱山があり、能見地区からの貨物輸送についても鉄道による運搬が模索されていた。
 そこで、須津谷地区の名士35名、それに予定線付近に在住する15名、能見地区の3名と、官営だった能見鉱山の払い下げを受け経営していた古河鉱業の出資により、須津谷軽便鉄道(株)が1917年に設立された。当初は軽便鉄道法による助成制度を利用し、762mm軌間の鉄道とする計画だった。
 鉄道の敷設を簡易な手続きだけでよいとした軽便鉄道法に代わって、1919年に地方鉄道法が施行されたことで、貨車を積み替えずに国鉄線へ乗り入れられる1067mm軌間で建設するように計画を改め、1920年に着工となった。
 1923年に須津谷〜能見を開業したのを皮切りに、1925年には大山〜須津谷、1928年には本橋〜大山が開業した。また、当時は盛業中であった荏古鉱山に向けても路線を伸ばし、須津谷〜荏古(現・荏古温泉)が1930年に開業した。当初は全線が非電化であった。
 メインとなる鉱石輸送の他に沿線の旅客輸送も当初より行われ、1932年には須津谷から分岐して荏古に至る荏古線(当時)を開業させ、当時開発が積極的に行われていた荏古温泉へのレジャー輸送も行うようになった。

○第二次大戦から1983年まで
 第二次世界大戦期は陸上交通事業統制法により近隣の鉄道が買収・統合される中、非鉄金属を産出していた須津谷鉄道は他者との合併を免れ、そのまま第二次世界大戦を終えることとなった。なお、この際にバス事業社3社を傘下に収め、バス事業を開始している。
 能見鉱山が主要な鉱山であったことから、第二次世界大戦では激しい空襲を受け、鉄道は壊滅状態となった。車両にも大きな被害が出ており、本格的な復旧は1947年までかかることとなった。
 1951年には燃料の供給不足を背景に電化工事を行い、まず同年に大山〜荏古間を電化。1952年には本橋〜大山間で、1953年には須津谷〜能見を電化して、全線電化路線となった。
 その後は鉱石輸送と観光輸送をメインに好調な営業を続けたが、1984年の国鉄ダイヤ改正で貨物列車の運行が大幅に削減されると衰退に転じ、1985年の円高不況で鉱山事業は完全にとん挫。1995年の能見鉱山の閉山で鉱石列車は廃止となり、以降は精錬用の濃硫酸輸送のみが残っている。


 軽便鉄道法は、それまでの私設鉄道法に比べてかなり法規的に緩かったようで、この時期は鉄道建設ラッシュとなっていました。その後の軽便鉄道法の廃止によって、開業前に狭軌線に鞍替えした鉄道も多くあります。
 陸上交通事業統制法は、戦時体制下に々地域の交通事業社を強制的に統合させた法律でした。これによって生まれた鉄道が茨城交通や北陸鉄道、富山地方鉄道などで、現在の鉄道会社の大本になったと言えます。ただし、鉱山鉄道についてはその独自性からか統合が見送られたようで、例えば石川県下の鉄道は全て北陸鉄道に統合されましたが、尾小屋鉄道だけは鉱山鉄道であったためか、統合を免れています。
 電化のタイミングはどの鉄道も似たようなタイミングで、当時は石油の高騰から電化ブームが起こっていたので、そこそこどこの鉄道でも電化されていました。貨物が濃硫酸がメインなのは、精錬も行っている鉱山鉄道ならではですね。

Copyright (C) sugitama All right reserved.